HOME > オステオパシーについて > オステオパシーの歴史

オステオパシーの歴史

1828

アンドリュー・テイラー・スティル
アンドリュー・テイラー・スティル
Image courtesy of the Museum of Osteopathic Medicine, Kirksville, MO *[PH446]*
写真掲載許諾:2010年11月

1824
スコットランド系アメリカ人四世のアンドリュー・テイラー・スティル(Andrew Taylor Still:A.T.スティル)は、アメリカのミズーリ州カークスビルでメソジスト教会伝道師の息子として生まれる。
1852~1853
A.T.スティルがフロンティアライセンス医師資格を取得し、軍外科医となる。初期より婦人参政権を支持、奴隷制に反対し、北軍の兵士・軍医として南北戦争で戦う。
1874
A.T.スティル医師は19世紀の医学の三つの流れ(ホメオパシー、アロパシー、折衷医学)のいずれにも満足せず、とりわけ薬剤信仰を嫌い背を向け、からだに本来備わっているはずの自然治癒力を最優先する治療法を観察・研究した。
約10年にわたる研究を経て発表した治療法は、「骨」を意味する「オステオ」と、「病」を意味する「パソス」というギリシャ語から「オステオパシー」と名付けられた。
ここで「オステオパシー」を旗揚げする。

1892

1892
アメリカのミズーリ州カークスビル(Kirksville)に、ATスティルの家族や地元の人々など男女21名の学生を迎えてアメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(American School of Osteopathy:A.S.O)が設立される。卒業生にはオステオパシー博士号(Doctor of Osteopathy:DO)の称号が与えられた。
設立当初の教師はATスティルとウィリアム・スミス医師の2名のみであった。
1896
オステオパシー医療業務の最初の法的認可がおりる。アメリカのバーモント州においてアメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(A.S.O)の卒業生が同州においての開業する権利を与えられる。
1897
カークスビルにて「アメリカ・オステオパシー発展協会(The American Association for the Advancement of Osteopathy)」が発足する。これは1901年に「アメリカオステオパシー協会AOA(American Osteopathic Association)」の名称に変更となる。この組織はDOの教育および医療内容の基準を保護し向上させるために模索された。
1898
2番目の全国的組織として「オステオパシー大学協会(The Associated Colleges of Osteopathy)」が発足。これは現「アメリカ・オステオパシー医科大学協会(American Association of Colleges of Osteopathic Medicine )」である。
1899
オハイオ州において、オステオパシーの最初の4年間教育機関が設立される。
同年代において、DOの新法案が拒絶される。
ウィリアム・ガナー・サザーランド DOにより頭蓋縫合での関節のメカニズムの研究される。

1900

1901
E.R. Booth, DOが選挙によって選ばれた始めてのAOA(American Osteopathic Association)の会長となる。
1902
アメリカオステオパシー協会(AOA)がオステオパシー大学認可基準を設け、大学の教育基準の設定および引き上げのための査察を翌年より始める。
1903
クリーブランド(Cleveland)でオステオパシー協会の七周年記念大会が開催される。
イギリスのジョン・マーティン・リトルジョンがカークスビルオステオパシースクールを卒業し、イギリスにオステオパシーを伝える。
1904
Ohio College of Osteopathyの最初の卒業生が出る。
1905
Dr.E.R. Booth によってオステオパシーと20世紀の医学史(A History of Osteopathy and Twentieth Century Medical Practice)が発刊される。

1910

1910
アメリカ医学教育に大きな影響をもつ「フレックスナー・レポート」が発刊され、その調査対象にオステオパシー医学校が含まれていた。ここに米国でオステオパシーが医療行為分野として公認される。
また、続報として、多数の医学校とともにオステオパシー医学校が厳しく糾弾されたことが大きな改革の引き金となり、基準ぎりぎりの学校は閉鎖となり、生き残った学校は非営利組織として生まれ変わった。
1916
Dr. L.A. BumsteadによってDelawareでオステオパシーの最初の病院が設立される(ベッド数30台)。
1918
A. T. スティル死去する。
イギリスでバッキンガムにて最初のオステオパシー学校(ブリティッシュ・スクール・オブ・オステオパシー)(British School of Osteopathy=B.O.S)がJ.マーチン・リトルジョンDOによって設立される。
1919
オハイオでは初めて、DOの麻酔剤および消毒薬の使用が認められ、これはDOによる外科手術の第一歩となる。

1920

1920(大正9年)
日本で山田式整軆術講義録が発行される。本書の中にオステオパシーの言葉が紹介される。

オステオパシーに関係する日本最初の書籍「山田式整体術講義録」が発行されるが、ほかの療術と合わせて編み出した方法を「整体術」として紹介したためオステオパシーとして伝えられることがないまま広まっていったと思われる。
1923
オハイオのWilliam A. Gravett, DOがAOAの会長となる。
1929
オハイオ州のDO資格者がでは589人となる。

1930

1939
サザーランド博士(DO)がThe Cranial Bowlを出版し、頭蓋骨調整法の基礎概念を正式に発表した。

1940

1943
オハイオ州において、DOの投薬が公認される。

1950

1951
アメリカ合衆国公衆衛生局がオステオパシー大学6校に初めて更新可能な教職助成金を与える。
1957
アメリカ合衆国教育局健康・教育・福祉科(DHEW)がAOAを、オステオパシー教育の認可機関として認める。

1960

1960
オステオパシー医科大学の入学時には70%以上が学士号以上の学位を持つに至る。
1961
「カリフォルニア融合事件」
カリフォルニア・オステオパシー医師協会がカリフォルニア医師協会と合併し、ロサンゼルスのオステオパシー医科大学がカリフォルニア医科大学となる。
1962
カリフォルニア州の住民投票に備えてDOの免許下付打ち切りに同意するDOにはMDの学位が与えられ、投票の結果よりDOの免許下付打ち切りが決定する。
1963
DOが保健業務を行う公務員として受け入れられる。
オステオパシー大学設立助成金およびオステオパシー学生への貸付金に関する規定が健康に関する職業教育補助法案に含まれる。
1965
日本武道医学会の中山清先生が日本人として初めてカリフォルニアでアメリカのオステオパシーと正式な技術交流を行った。
同年、呉竹学園で交流報告会が開催される。
日本武道医学会内で、オステオパシー医学研究部門が設立される。
1966
DOが初めて将校に任命される。
AOAはDHEW(現健康人間奉仕科DHHS)より、メディケアの病院の公認組織として指定される。
1967
アメリカ医師会(AMA)の長期にわたる反対を取り下げ、DOが医師として徴兵されるようになる。
AOAは国家認定委員会によって、オステオパシー教育のあらゆる面において認定機関として認められる。

1970

1974
カリフォルニア州最高裁においてDOの免許下付再開の決断が下される。同州では、オステオパシー医科大学が認可され、オステオパシー医療業務が復活する。
1975
Evelyn Cover, DO,女史がオハイオ医師委員会の初の女性DO会長となる。

1980

1980
オハイオ大学(Ohio University)で初めて21人の医師が卒業し、全員DOの資格が授与される。
1983
DOが初めて陸軍医師団の司令官に昇格する。

1990

1993
イギリスでオステオパシーが手技医療師として国会で認められ、公認の専門カレッジが誕生する 。
1996
アメリカ、コロラド、スプリングスでAOAの総会が行われる。オステオパシー医の業務に関する世界的統一基準が提案される。
1998
イギリスでGOsC、ジェネラル・オステオパシック・カウンシルの設立により、いくつかあったオステオパシーの団体が一つとなる。

2000

2002
2月19日に、フランス上院は「オステオパス」(Osteopath)を公認したのである。業務範囲はイギリスとほぼ同等なものであるとされている。
1965年以来、日本武道医学会の研究部門だった日本オステオパシー研究部門が、日本オステオパシー医学会Japan Association of Osteopathic Medicine(JAOM)として設立される。


~参考および引用文献~
  オステオパシー総覧(エンタプライズ)
  いのちの輝き(翔泳社)